所長挨拶
未来に生き延びるための知恵とは何か
1991 年のことです。文部省(現文部科学省)が、大学の教育内容に関する大規模な規制緩和を行いました。「大学設置基準の大綱化」と呼ばれています。大学生が学部を卒業して学士となるためには、124 単位を取得しなければならない。そこは昔も今も変わりません。でも、規制緩和前には、124 単位の内訳が厳格に定まっていた。すなわち、一般教育科目 36 単位、外国語科目 8 単位、保健体育科目 4 単位、専門教育科目 76 単位で、計 124 単位。ここで私事となって恐縮ですが、規制緩和前の学生で、しかも極度の運動嫌いでしたので、保健体育科目の卒業単位取得に七転八倒したことを思い出します。
閑話休題。この単位の内訳についての規定が 1991 年に取っ払われました。124 単位の中身を原則として大学ごとに按配してよいことになったのです。あくまでも私見ですが、当時の文部省としては、大学教育の中でも、一般教育等の「教養教育」と呼ばれてきた部分よりも、専門教育の部分をもっと強めた方が、新しい時代に有益と考えていたのだと思います。1991 年はソヴィエト連邦が最終的に崩壊した年で、その 2 年前には「ベルリンの壁」が崩壊していました。世界はまさに変革期に差し掛かっていた。これからはきっとどの分野でも知識は高度化し専門化するだろう。そちらに対処するのが大学教育の本領だ。「教養教育」は後回しにならざるを得まい。1991 年頃にはそうした予見が文部省に限らず世の中全体に強く働いていたでしょう。
けれどもこの種の未来予測は当たっていたでしょうか。教養の語義は掘れば掘るほど多様に広がりますが、ひとつ大きく、リベラル・アーツという英語と結びついています。リベラル・アーツを〝超訳〟すると「自らの力で、判断ミスも少なく、なるたけ自由に世渡りするのに、必要な技芸」とでもなりましょう。「なんだ、それはつまり単なる常識だろう」と言われそうですが、ここから先が実は厄介。冷戦構造崩壊後、政治の変数は増え、資本主義の高度化によって経済の変数も増え、価値観の多様化によって社会や文化の変数もこれまた増え、科学の発達は加速化して常人には理解不能な域に。幾ら勉強しても教養が不足して世渡りに困る時代が21 世紀。そんな風に言えますまいか。
専門家である前に、常識ある教養人であれ。耳にしがちなフレーズでしょう。ところが、常識ある教養人になるのがとてつもなく難しいのが当世というもの。そこで大学がもっと機能しなければ! ある日本の教育社会学者は、大学の学部の 4 年間を「教養教育」に特化して、専門教育は大学院に任せるべきと、主張しています。それはやや極端としても、「教養教育」を今日的に深めて進化させることが大切な課題だということに間違いはありますまい。21 世紀が始まったばかりの 2002 年に、この教養研究センターが設けられたことは、大げさに申せば歴史の必然、時代の啓示でありましょう。今日の教養、未来に生き延びるための知恵とは何かを問い続け、そのための教育に資する機関として、精一杯のことを致したく存じています。何卒よろしく御願い致します。
教養研究センター所長
片山杜秀 (かたやまもりひで)
慶應義塾大学法学部教授、政治思想史研究者・音楽評論家
1963年、宮城県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。音楽評論家、政治思想史研究者。1980年代から、音楽や映画、日本近代思想史を主たる領分として、フリーランスで批評活動を行う。学生時代は蔭山宏、橋川文三に師事。大学院時代からライター生活に入り、『週刊SPA!』のライターなどを務めた。クラシック音楽にも造詣が深く、NHKFM『クラシックの迷宮』の選曲・構成とパーソナリティを務める。『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。
主な著作
『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング)、『鬼子の歌』(講談社)、『未完のファシズム』『尊皇攘夷』(ともに新潮選書)『近代日本の右翼思想』(講談社メチエ)『国の死に方』(新潮新書)『クラシックの核心』(河出書房)『見果てぬ日本』(新潮社)『ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる』『ゴジラと日の丸』(ともに文藝春秋)『皇国史観』(文春新書)、共著に『平成史』(小学館)など。