2021年度 活動記録 ー 第7回研究会

2021年11月26日(金)16:00-18:00開催(Zoomによる遠隔会議方式)

<参加者(敬称略)>
小菅隼人(教養研究センター所長、理工学部、英文学・演劇学)
荒金直人(教養研究センター副所長、「文理連接」担当、理工学部、哲学・科学論)
縣由衣子(外国語教育研究センター、フランス現代思想)
寺沢和洋(教養研究センター副所長、医学部、放射線研究)
見上公一(「文理連接」企画、理工学部、科学技術社会論)
宮本万里(商学部、政治人類学・南アジア地域研究)
沼尾恵(理工学部、政治哲学・寛容論)

16:00〜16:40 「『いま言葉で息をするために』を読む(2)」:文学」(小菅隼人先生)
16:40~18:00 自由な議論

2021年度 第7回文理連接研究会 発表資料

話題提供後、自由に議論が繰り広げられた。議論のひとつのポイントになったのは、コロナ渦における日記という表現方法の有用性についてであった。日記はリアルタイムの出来事を書き手が解釈をしつつ、それを記録するのである。その意味で自分を晒すことになり、振り返ってみれば誤解の連続ということがある。また、日記は突如として終わることがあるが、未完の小説のように、その後のことを想像させるという力があり、その意味で、途中で断絶されても価値を持ち続ける媒体なのである。

話題は次に顔について移り、ヨーロッパと日本とでマスクの受け入れの差異について議論がされた。日本ではコミュニケーションをする上で目が重要で、対してヨーロッパでは口が重要であるということもひとつの要因としてあるのではないかと指摘された。

議論はさらに演劇の有効性について展開されていった。コロナが蔓延している状況において演劇はどのような力を持つかという問いに対して、演劇は必要であるという強さを持たないのではないかという意見が出された。同様に宗教も力を発揮できていなかったのではという指摘もあった。これに対して、国家との力関係が演劇や宗教の力の弱さの説明要因として挙げられた。この流れでコロナは科学技術の勝利として理解できるのではないかと示唆された。別の角度からは、ウィズ・コロナというように、コロナとの戦いにはある意味我々はすでに負けているのだということ発想もありうるのではないかという意見も出された。

宗教との繋がりから、次に埋葬と人権について議論がなされた。まず埋葬という用語はキリスト教などの発想であり仏教など火葬を重視する宗教もあると指摘され、その観点から葬送という用語が適切であると指摘された。その上で、コロナ渦では葬られるということについては平等に行われていたが、儀礼のプロセスが断絶されたということが問題の所在ではないかと議論された。

このようにコロナの力というものを見せつけられたわけであるが、同時にコロナは物事の本質を見極めさせる良さもあったのではないかと指摘された。ただし、ここでは何が不要不急なのかという線引きについてではなく、我々の価値観というものを鮮明にするということであるのだと。これと関連して、コロナが男性・女性を同じように影響したのか、あるいは、違う影響を与えたのかが検討された。

最後に、再び科学技術の圧倒的な力と日記というテーマに話が戻された。これに対して技術については楽観視することはできても、科学に対しては客観性の名の下で知識が有効である文脈が単純化され濫用される恐れがあるという点から不安要素が残るということが挙げられた。また日記については、今回読んだ日記は、独り言の日記というよりは見るための日記ということで、違和感があったという意見もあった。

(以上、文責は沼尾)