2021年10月29日(金)16:30-18:45開催(Zoomによる遠隔会議方式)
<参加者(敬称略)>
荒金直人(教養研究センター副所長、「文理連接」担当、理工学部、哲学・科学論)
縣由衣子(外国語教育研究センター、フランス現代思想)
井奥洪二(自然科学研究教育センター所長、経済学部、環境科学・医工学)
石川学(商学部、フランス文学・フランス思想)
小菅隼人(教養研究センター所長、理工学部、英文学・演劇学)
斎藤慶典(文学部、哲学)
寺沢和洋(教養研究センター副所長、医学部、放射線研究)
見上公一(「文理連接」企画、理工学部、科学技術社会論)
16:30〜17:15 「『いま言葉で息をするために』を読む(1)」:思想」(荒金直人先生)
17:15~18:45 自由な議論
2021年度 第6回文理連接研究会 発表資料
2021年度文理連接研究会第6回目は、主にフランスの人文系の学者によるコロナ禍についての論考集『いま言葉で息をするために』(西山雄二・編著)の内容について、3回に渡って解説し議論していく初回となった。当該書籍は、「はじめに・思想・文学・歴史・宗教・人類学」の章に分かれ、まず、荒金直人先生(理工学部、哲学・科学論)より、最初の約1/3の分量に相当する「はじめに・思想」についての解説(6人の哲学者による記述、1. カトリーヌ・マラブー、2. ジャン=リュック・ナンシー、3. N・キャサリン・ヘイルズ、4. アレクサンダー・ガルシア・デュットマン、5. エマヌエーレ・コッチャ、6. ペーター・サンディ)が45分ほどなされ、その後、内容についての自由な議論となった。
ナンシー(1人目)の「(コロナパンデミック以前も)私たちの身体はつねによそ者なのであり、健康な時でさえそうなのです。呼吸、心臓、消化器、神経、欲動に関して、身体はつねに自律しています。」の記述にあるように、コロナ禍は何も特別ではなく、常によそ者(必ずしも従順ではない、緊張関係がある)を抱えながら生活を営んでいることには変わりはないという考え方や、デュットマン(4人目)の「予見することのできなかった出来事が一旦起こると、その出来事が非常に大きな影響を与えた場合、そしてその出来事が否定されない限り、その出来事は予見できたかのように事後的に感じられるのである。」との記述があり、この辺りの内容がきっかけとなり、以下、議論が繰り広げられた。
コロナパンデミックや東日本大震災を予見できたのか。また、そのため対策は事前にできていたか、もしくは、できたのではないか、という議論に対して、個人レベルでは認識の差が大きく、それを集団・社会のレベルにどう高めていくべきか(政治的・経済的な力の偏在にも依存?)或いは、社会のレベルから個人レベルへどう落とし込んでいくべきかが肝要であるとの意見があった。更に、何をもって判断のための根拠とするのか、それをどうやって根拠として認めるのか、認められたとしてどう浸透させるのか。天災なのか人災なのかについても今後検証が必要であるとの意見や、予見できずに対策もできない、予見できたけど対策しない、はそもそも同じことで、とすると防げないという結論にもなりうるとの指摘もあった。
フィクションで見てしまうと対策しなくなる(せいぜいその程度か、或いはそんなことは起こりえないだろうという楽観が芽生えることも)。結局のところ、ありとあらゆることを想定し事前に十分対策を取ることは不可能であり、起こってからでないと対処(対策)を始められない。といいつつも、可能な範囲で対策を取るとして、どこに(対策の)線引きをするのか、誰がどうやってそれを決めるのか。これまでの事象については、どのようなプロセスで線引きがなされてきたのか、コロナパンデミック後、どのようにそのプロセスや結論が変化していくのか、どう変化させるべきか。個人レベルでは、例えば、保険に入る入らないという話につながるとの議論があった。
予見についての結果論的な話として、後になって様々な事実や情報が明らかになった後で、後付けでの批判はしやすいが、事象が起こった瞬間やその直後に、情報が十分にない中で、適切な判断や行動ができるかといえば、時として難しく、事象が起きて解決することよりも未然に防ぐことの方がより評価されるべきだが、未然に防げてしまうと、その後の事象は起きていないので、そもそも評価されにくいという点について、どうすべきか。確率論で言えば、何か数字で物が言えても、当事者になれば、100%で、そうでなければ、0%という話にしかならない。死者数でいえば、コロナもインフルエンザも交通事故も大差ないが、自殺者の方が多く、その対策の方が本来はより重要であるが、果たしてそうなっているのか。理系的なリスクの観点と文系的な出来事についての捉え方(ストーリー化)の両方をつなげることが必要であるとの指摘があった。
前述のナンシー、デュットマンの民主主義に対する論調は通じるものがあるという指摘や、その他、注目を集めた記述・キーワードは、ナンシーの「生政治」、デュットマンの「遡及的認識可能性」、コッチャ(5人目)の「キッチン」であった(書籍内の6人の哲学者による記述の概要については別途、荒金先生のまとめを参照)。そもそも結論めいたことを言うのが難しい上に、今回は1回目ということもあり、今後、どのように議論が展開されていくのか注目である(2回目以降につづく)。
(以上、文責は寺沢)