2021年9月24日(金)16:30-18:45開催(Zoomによる遠隔会議方式)
<参加者(敬称略)>
沼尾恵(理工学部、政治哲学・寛容論)
縣由衣子(外国語教育研究センター、フランス現代思想)
荒金直人(教養研究センター副所長、「文理連接」担当、理工学部、哲学・科学論)
井奥洪二(自然科学研究教育センター所長、経済学部、環境科学・医工学)
石田勝彦(東京化学同人、科学系出版)
小原京子(理工学部、認知言語学)
小菅隼人(教養研究センター所長、理工学部、英文学・演劇学)
寺沢和洋(教養研究センター副所長、医学部、放射線研究)
新島進(経済学部、近現代フランス文学)
見上公一(「文理連接」企画、理工学部、科学技術社会論)
宮本万里(商学部、政治人類学・南アジア地域研究)
16:30〜17:30 「コロナをきっかけに考えるロボットとのセックスと恋愛」(沼尾恵先生)
17:30~18:45 沼尾先生への質問と自由な議論
今回は、沼尾恵先生(理工学部、政治哲学)から、「コロナをきっかけに考えるロボットとのセックスと恋愛」というタイトルで話題提供をしていただいた。コロナウイルスの感染拡大によって世界的に他人との接触が制限されるなか、性的接触の制限という切り口から、近年実用化が進む「セックスロボット」と人間との性行為に焦点を当て、さまざまな論点と歴史的議論が紹介された。これを受けて参加者の間で、多角的な議論が行われた。
人間をかたどった像を性の対象にする。このこと自体は、すでにギリシャ神話にラーオダメイア、ピュグマリオーンの話が登場するくらい古くからあるが、近年のセックスロボットはAI搭載によって、人間に近い会話能力をも実現しつつある。その現実的メリットとして、たとえばコロナ禍における感染予防対策やメンタルケア、性感染症対策、セックスワーカー代替のための利用が考えうる。デメリットとしては、人と人の関係破壊、女性のモノ化を助長させる等の懸念がある。ロボットという存在のあり方については、そもそも人型をかたどっていなければいけないのか(K.Devlin)、ロボットと人との関係はあくまでも主人と僕であるべきだ(J.Bryson)といった、「モノ」としてのロボットとの関係についての考察がある。その一方で、電子的人格をロボットに付与すべきかという議論や、ロボットに市民権を与えた事例(サウジアラビアのSophia)があり、ロボットが人間同様に何らかの権利をもつ存在として認識され始めている状況もある。意識の有無についての議論もあり、もし意識があるのなら(人との性行為においては必須の)「同意」がロボットにできるかという問いも生じる。これらセックスロボットの社会的、道徳的な地位にかかわる論点について考察する際に、17世紀イングランドのT.HobbesとJ.Lockeの思想がヒントになるかもしれない。Hobbesのモデルからロボットと人間の主従関係について考えるなら、たとえば平和のためにわれわれが国家(ある種の精密機械とみなす視点)に服従しているように、ある機械がある目的でつくられ目的を遂行できるのならば人間側にはそれに従う義務が生じるかもしれず、そのとき機械はどのように責任ある存在になりうるのか、といった議論を引き出せる。また、Lockeのモデルからは、どういう条件を満たしたときに人格をもつといえるかについてのヒントが得られる。理性的存在であれば法に対して責任をもてる存在(person)となり、人間でなくとも法の適用が可能になる。法に服せる条件を満たすなら同じ道徳的コミュニティに属することが可能になり、その存在に尊重、善意をもって人間は接することができよう。そうした議論は、電子的人格と関係するだろう。
セックスロボットは、現段階は技術的に「そこに山があるから登ってみる」という状況である。人間とどういう関係を構築するのが望ましいのかについて、いま議論しておくべきではないか(カズオ・イシグロ『クララと太陽』の問いと『私を離さないで』の警鐘)。 以上、沼尾先生の発表概要。
参加者からは、まずHobbesとLockeに関連して質問・議論が行われた。17世紀の思想の前提にあった「生命」「自然」を、現代のロボットの考察でも同様の前提として扱えるのかという問い、「自然」との接続の前に「デザインされたもの」が介在する視点が入るというコメント、自然界のさまざまなものに人格を見出していく点でマルチスピーシーズ人類学との親和性を指摘する声があった。また、セックスロボットやラブドールには女性型が圧倒的に多いなど、性の不均衡を複数の参加者が指摘した。それは、昔からフィクションの世界においても見られる現象であり、人工物と人間の恋愛を扱った文学、アニメ、映画の例が共有された。性差が生じる背景には、制作にかかわる者の視点、婚姻形態に現れるような社会の文化的背景やジェンダー観が関係している可能性が指摘された。また、「私とロボット」という視点以外に、私自身がロボット化するサイボーグやBMI(Brain Machine Interface)の視点もあり、そちらがロボット代替以上に拡張していくのではないかというコメントも出た。人と人でないものとのつきあいとしてみるなら、肌色の違いやペットなど歴史的にあった問題とも関連するとの意見があった。意識の有無、生命か非生命かは議論のポイントだが、意識の由来を考えたとき、何にそれを見出すのか、生命と非生命の線引きは非常に難しいとの科学的見解もあった。
セックスロボットという話題から導き出される論点が多様で議論のベースを合わせることが容易でないため、「どこに問題意識を設定すべきか」という議論もなされた。すでにロボットはある部分は社会受容されているし、人と機械の関係や性搾取の問題は従来からあるのだから、セックスロボット自体が新しい問題を提起するのか、という問いかけもあった。また、AIが実現する全方位的な技術的可能性を議論するならば、まずどこが禁忌で制限すべきかを見ていくことによって社会的、文化的な話につながるのではないかという意見が出た。それに関連し、考える次元においては制限を設けるべきではないという見解も出て、そこから、思考態度に関する根本的な議論も深まった。(この「思考の制限」にみられる見解の相違には、社会・文化を前提に置いて現実分析・課題解決を探る「社会科学者」の思考態度と、制限を設けない思考によって社会・文化の前提そのものの再検討を試みる「哲学者」の思考態度との違いが現れているようにも見え、興味深かった。前提を設けて思考を具体的に進める態度はいわば理系的であり、前提に囚われず抽象的に思考を進める態度を非理系的とするならば、ある意味で、文理が連接した場面だったといえるのではないか。)
今回の話題提供は、抽象度の振れ幅においてもテーマの広がりにおいても、実にさまざまな論点を引き出した。時間内に議論は収束しなかったものの、参加者が今後の議論の種をたくさん持ち帰ることのできる有意義な会となった。
(以上、文責は石田)