文化部門の論文の中には、むしろ社会部門に応募すべき論文も散見された。
「企業メセナ普及率停滞の改善についての考察」はむしろ社会部門へのエントリーのほうがふさわしかったかもしれない。「変/不変」という今回のテーマに最もよく応えた論文のひとつではあった。提言型の論文だが、最終的提言にたどりつくまでに、日本におけるメセナの現状分析、先行研究の検討をおこなったうえで、メセナ担当者数名に有意義なインタヴューをおこなっている等、手堅さが印象として残った。とはいえ、審査員からは、テーマゆえにしかたない部分もあるのだろうが主張を組み立てるにあたって、視点を企業寄りにかぎりすぎているのではないかとする意見も少なからず出された。
受賞論文「名と文学」はある意味典型的な文学理論系の論文であり、それがゆえに学術論文の規範からは逸脱している印象を与える論文でもある。「文学は圧倒的な苦しみにある他者を救えるか」という巨大で不滅な問いに始まり、批評理論をうまく援用し、具体的文学作品の精読を通じて当初の大きな問いに答える、という構成である。読む側としてはかなりの注意力を強いられ、飛躍が少なくない論理展開ではあるが、無理強いもなく、注意して筆者の声に従っていくことで、具体的な言語芸術の中に普遍的問いへの答えのきっかけが潜んでいることが示される。しかし、批評理論の用い方に物足りなさを感じる審査員がひとりならずおり、また、この手の文芸批評論文を学術論文として評価するべきかという疑問も上がった。論文コンテストである以上、学術論文としてのスタイルを踏襲しているかという点も審査の対象である。どこまで破壊し、自由奔放に書くことができるかを競う場ではないという認識を改めてもっていただきたい。
それに対して受賞論文「三善晃の音楽語法」は非常に技巧的で緻密な「学術論文」である。音楽分析のテクニカルタームを駆使して三善晃の合唱曲を解析していく過程は、音楽専門の者でなくてもわかるほど明瞭で、記述も正確だ。その記述は執筆者の広範な知識に裏付けられ、三善晃の音楽の特徴をあぶり出す筆力は確かである。しかしながら、読み終わった後で引っかかる点は、このような緻密な分析が分析そのもの以上の洞察を書く者にも読む者にももたらすのか、という疑問である。本論文にはたとえば三善晃の音楽史的再評価、といった主張や、日本語合唱についての筆者独自の考察が見られるわけでもない。人文学の論文においては、単に現象を観察分析し言語化しただけでは不十分で、それが何らかの哲学的論考・洞察へつながることが大切なのではないかと感じた。
「明治から戦前期における黙祷の特徴とその変容」は「黙祷」の戦前メディア表象に着目するという斬新なテーマを扱い注目を得た。しかし「黙祷」の論考という方向性は斎藤論文を後追いで調査・裏付けしただけ、という印象も否めない。「ヨミダス」を駆使してデータ検索をし、実証しているわけだが、そこからさらに一歩進んだ考察が見られなかったのが残念だった。
「『蝶々の纏足』『風葬の教室』少女は高校生から小学生になる」は主人公の異なる年齢設定が物語にどのような変化をもたらしたのかという視点から、山田詠美の小説を読み解く。自分の読みをおし進め、みずからのことばで語る論考は好感が持てるが、「小説とはいかにあるべきかを考えるてがかりとなるであろう」との大きな予告に結末になっても答えはなかった(少なくとも十分読み手に伝わらなかった)。また「纏足」や「風葬」ということばから想起されるイメージの広がりに踏み込むとさらに読みが深まったのではないか。
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